吃音のグループ
2006年4月15日 映画・読書批評以外の話 吃音のグループへ向いていた心を、これからは他のところへ向けたいと思う。いや、すでにしばらく前から僕は心を吃音のグループから他に向け始めている。物理的に吃音のグループに足を運んでいても、心は他を向いている。
僕の問題は吃音をどうこうすれば良い、などという浅い問題ではない。もっと深いものだ。今まで吃音のグループに足を運び続けてきたが、吃音だけに悩んでいる人達には、僕の問題はなかなか解ってもらえない。吃音という問題だけにアプローチしたところで、僕のこの漠然とこみ上げてくる不安感、強迫観念、内なる傷ついた子供、社会への適応、自分の主体性の獲得の問題は解決しない。癒されない。
僕は吃音を他のいろいろな問題と関連づけて考える。前から何度も述べているように、吃音と内なる傷ついた子供も関連すれば、吃音と強迫観念も関連するし、漠然とした不安感と吃音も関連している。これらの問題はすべてが繋がっている。僕は一つ一つを切り離して考えない。すべてが繋がって一つの全体を作る。吃音などその部分に過ぎない。一つの部分なのだ。
だから、吃音などというほんの表面的な一部分にアプローチし続けたところで、僕は何ら変わることがない。発声練習などをして明瞭に発音をする練習をしたところで、僕の内奥の傷は癒されない。論理療法などで意識のレベルで自分に言い聞かせたところで、無意識のレベルのトラウマにはかすりもしない。
生理学にもとづく考え方は機械論的で、心も精神も物質に還元されてしまい、僕の心に響く説明とはならない。
クライエント中心療法的に自己の内面を洞察する方法も、微力すぎる。無意識のレベルでの抵抗をくつがえす力もない。音楽療法に関しても同様である。
僕は、吃音のグループにおいて吃音へのアプローチをすることから、心を他に向ける時期が来たのだ。今後も吃音のグループに物理的には参加することになるが、その他の広い分野に心を向けつつということになる。
僕の問題は吃音をどうこうすれば良い、などという浅い問題ではない。もっと深いものだ。今まで吃音のグループに足を運び続けてきたが、吃音だけに悩んでいる人達には、僕の問題はなかなか解ってもらえない。吃音という問題だけにアプローチしたところで、僕のこの漠然とこみ上げてくる不安感、強迫観念、内なる傷ついた子供、社会への適応、自分の主体性の獲得の問題は解決しない。癒されない。
僕は吃音を他のいろいろな問題と関連づけて考える。前から何度も述べているように、吃音と内なる傷ついた子供も関連すれば、吃音と強迫観念も関連するし、漠然とした不安感と吃音も関連している。これらの問題はすべてが繋がっている。僕は一つ一つを切り離して考えない。すべてが繋がって一つの全体を作る。吃音などその部分に過ぎない。一つの部分なのだ。
だから、吃音などというほんの表面的な一部分にアプローチし続けたところで、僕は何ら変わることがない。発声練習などをして明瞭に発音をする練習をしたところで、僕の内奥の傷は癒されない。論理療法などで意識のレベルで自分に言い聞かせたところで、無意識のレベルのトラウマにはかすりもしない。
生理学にもとづく考え方は機械論的で、心も精神も物質に還元されてしまい、僕の心に響く説明とはならない。
クライエント中心療法的に自己の内面を洞察する方法も、微力すぎる。無意識のレベルでの抵抗をくつがえす力もない。音楽療法に関しても同様である。
僕は、吃音のグループにおいて吃音へのアプローチをすることから、心を他に向ける時期が来たのだ。今後も吃音のグループに物理的には参加することになるが、その他の広い分野に心を向けつつということになる。
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