吃音と実存
2007年2月17日 映画・読書批評以外の話 コメント (2) 吃音者の会にて、「ブログに吃音のことをもっと書きたまえ」と言われたので、今日は吃音について書いてみよう。
私が吃音者の会にてすこし残念に思うのは、たいがいの方が、口から発せられる物理的な音声としての言語が流暢であるか、それとも非流暢であるかという現象面だけにとらわれているということである。
ようするに吃るか吃らないか、その二分法なのである。すこしでも流暢に言葉を発するために、これから発っしようと思う言葉をなんども予行練習で練習してみたり、わざと別の言葉に言い替えてみたり、このような小手先のテクニックに終始し、一時の流暢性の獲得のみにこだわっているのでは、言葉の本質というものを見逃してしまうような気がしてならない。
なんども予行練習を繰り返した挙句に発せられる言葉、自らの想いとは異なる別の表現に置換えられた言葉というものが、本当に自らのありのままの言葉といえるのであろうか。みせかけだけの流暢性を獲得することが、真に我々にとっての目標となりうるのだろうか。
我々はこの世界に内存在として実存している。自らの生は自らでしか生きることができないのである。この世界に肉体をもって自らとして生きて存在している私が、今この瞬間に感じること。私とあなたとのつながりのなかにおいて、たった今この瞬間に感じた想いをそのまま言葉としないで、真に自らの生を生きていると実感することができうるであろうか。
メルロ=ポンティや竹内敏晴氏などが語る、今この瞬間に生まれる言葉というもの。言葉の本質とはこういうものではないのだろうか。
私は昨年くらいからそのように思うようになった。
私が吃音者の会にてすこし残念に思うのは、たいがいの方が、口から発せられる物理的な音声としての言語が流暢であるか、それとも非流暢であるかという現象面だけにとらわれているということである。
ようするに吃るか吃らないか、その二分法なのである。すこしでも流暢に言葉を発するために、これから発っしようと思う言葉をなんども予行練習で練習してみたり、わざと別の言葉に言い替えてみたり、このような小手先のテクニックに終始し、一時の流暢性の獲得のみにこだわっているのでは、言葉の本質というものを見逃してしまうような気がしてならない。
なんども予行練習を繰り返した挙句に発せられる言葉、自らの想いとは異なる別の表現に置換えられた言葉というものが、本当に自らのありのままの言葉といえるのであろうか。みせかけだけの流暢性を獲得することが、真に我々にとっての目標となりうるのだろうか。
我々はこの世界に内存在として実存している。自らの生は自らでしか生きることができないのである。この世界に肉体をもって自らとして生きて存在している私が、今この瞬間に感じること。私とあなたとのつながりのなかにおいて、たった今この瞬間に感じた想いをそのまま言葉としないで、真に自らの生を生きていると実感することができうるであろうか。
メルロ=ポンティや竹内敏晴氏などが語る、今この瞬間に生まれる言葉というもの。言葉の本質とはこういうものではないのだろうか。
私は昨年くらいからそのように思うようになった。
コメント
良いか悪いか、損か得か・・ではなく、ものごとを多角的に見れるのぶすけさんはすばらいいです。そして、プロフィールを拝見しましたが、「頑張ってきたこと」を「生きてきたこと」と言えるのも。私は今までの人生で、これは頑張った!と堂々と言える事がないけれど、これを読んだとき、「私もだな」と思いました。吃音であることが、私の人生に大きな影響を与えていて、どれだけ悩んだか計り知れないけれど、私も何とか生きてきたのだから、頑張ってるなと、自分を褒めてあげようと思いました。
おお!早速読んでくれたのだね!コメントありがとです。
なんとなく実存主義哲学にかぶれつつあるので、このような日記を書いてみたのですが、NATSUKIさんならご理解いただけると思ってましたよ。ありがとうです。
>そんな自分を取り巻いている世界もまた、現実離れしているような感覚に陥る・・・。
・・・現実離れしている感じがするのですね。こういうことをお感じになられるとは、さすがNATSUKIさんです。この感じは僕も常に感じていて、僕の場合、悩まされもしています。
こういう感じに気がつくというのも、大事なことだと思います。
頑張ってきた自分を褒めてあげようとのことですが、なんか前向きになられたみたいで良かったです。自己肯定は大事ですよね。吃音の方って、無理に周囲に合わせようと頑張ってしまうことが多いような気がします。僕もそうですが。
ありのままの自分を褒めることができると、楽になりますよね☆