掃除が

2009年6月1日 日常
苦手だ・・・・

 特にヒーラーさんとか、スピリチュアルな関係の方々に、施術した代金を患者さんからいただくのは申し訳ない、と感じる方が多いみたい。

 お金を請求してしまうと、お金儲けになってしまうというか、それこそ社会のお金中心のシステムにのってしまうからね。

 お金というものは、人々に罪悪感や嫌悪感をもたらすことが多いものです。昔から、「お金の話は汚い」という暗黙の想いが教育などを通じて我々に植えつけられてしまっているのでしょう。

 僕自身も、潜在的に同じようにお金に対する罪悪感というか嫌悪感があります。

でも、人に感謝されるようなことをしたら、報酬として愛を受け取っても良いのだよね。お金は感謝という愛のエネルギーであると。

 経済とはもともとは愛のエネルギーの交換なのである、と。

5月27日の日記

2009年5月27日 日常
5月27日の日記
今月はじめに行った新宿御苑の写真です。

 歯の噛み合わせが悪く、それが骨盤の歪みへとつながったりして、歩くときも足がちょっと変な方向に歪むクセがあるのかもしれない。
 左足の靴がだんだん変形してきた。

 じわりじわりと靴の形が変形してくる。

 10年前と同じじゃないか!!
 10年前と同じ現象です。

 カイロプラクティックのお世話になるかもだ。

幸福の科学

2009年5月25日 日常
宗教法人である、幸福の科学が新しく政党を作ったみたいですね。幸福実現党か。1991年頃にブームになった宗教ですね。
もっと早い時期に政治に進出していてもおかしくなかったような気がする。

ニーチェ

2009年5月24日 日常
 
 ニーチェ研究会みたいなもがあったら行ってみたい。
 
 デュオニソス的な生の躍動。憧れる。
スイス、ダヴォスの山上のベルクホーフ国際結核療養所に、3週間の予定でいとこのヨーアヒム・チームセンを見舞った見習い造船技師ハンス・カストルプは、そのまま自ら入院患者となり、療養所の生活を始める……。


 難しいんだよなあ。トーマス・マン、『魔の山』。反自然主義文学ですか。唯物論的な世界観ではなくて、人間の内面に目を向けよ、と。とくに「時間」についての話が出てきますね。「時間」とは物理的で客観的なものではなく、その人の内的な意識によって、感じられる長さが違う、と。意識というものは、物理的なものではないからね。物理的なものさしでは、はかれないわけで。すべてを数字とか数値とか客観的なもので表せると思っているのが間違いだ。

 
 

連休

2009年5月24日 日常

 今頃、この話題を書くこと自体がおかしいが、ゴールデンウイーク、もう何週間も前の話ですが、栃木県にて行なわれた吃音者の大会に参加しました。

 僕は、吃音者の大会に泊まりで参加したのは初めて。今までは、ずっと日帰りだった。

 講演がいっぱいあって、ずっと座って難しいお話を聴くことが中心の大会だった。
 特に吃音とは「コミュニケーション」という関係性における現象である、みたいなことを仰っていた先生のお話が興味深かった。

 コミュニケーションによって吃音が生まれ、コミュニケーションによって吃音が癒やされる。
 なんだかそんなお話でした。
 すべては関係性ですね。かんけいせい。

 うーん、いろいろ書こうと思ったら急に難しくなってきた。
 やめておこうか。

 哲学みたいな話になっていくかんじだ。


 今年の一月に『マンマミーア』とかいう、出てくる人たちが踊りながら歌いまくっている映画を観て以来、映画館に映画というものを観に行っていません。

 ヤッターマンの映画も結局、観に行かなかったし・・・・深キョンのドロンジョさまが観たかったのになあ・・・・ああ、あなたのボヤッキーになりたい~っ!!


 さて、今、観たいと思っている映画は『天使と悪魔』です。バチカンの話だな。イルミナティという秘密結社が出てくるしなあ。観たいです。小説では読みました。ローマ法王の交代に伴い、いろんなことが起きるのです。大変なことが。

 バチカンといえば、今や世界遺産ですね。サン・ピエトロ大聖堂とか。国全体が世界遺産なのでしょう。

世界最小の独立国家であるバチカン市国、なんだか気になる国です。イタリアのようで、イタリアではない。
 もとはといえば、ムッソリーニが作った国ですがね。1929年、ラテラノ条約による。
 ファシズムが生んだ国家であります。
 


 

 フランツ・カフカの本の解説に、グレゴール・ザムザは虫に変身しても、心は人間のままだって書いてあった。肉体だけが人間ではなくなった、と。
 心は人間なので、感情も湧いてくるし、言葉を発しようとするのだけど、肉体が虫になっているから、人間の声になって言葉が出てこない。
 
 そうか、声というのは人間の肉体がないと発せられないのか。虫には発声器官もないですから。

 声というのは不思議です。あ、い、う、え、お、と声になって音声になって出てくる言葉は肉体の発声器官から発せられて音波となって空気中を振動します。物理的なものです。

 しかし、わたしたちが心の中で想ったり、考えたりする言葉は、内言語といいますが、肉体の発声器官も関係なしに頭の中で発音されます。

 頭の中で発音される内言語は、心の領域に属するもので、声となって音声となって出てくるときには肉体の力を借りなければなりません。
 
 人間が表現をするとき、自己の外の世界に向かって表現をするときに発せられる、声というものが、心と肉体の合作であるということをカフカの本の解説から強く実感したのでした。

 


 僕の知り合いのおじさんで、宗教がとても好きな人がいます。あちこちの宗教に参加しているみたい。吃音の会の人なのですが、サークル活動が好きな社交的な方なので、宗教にあちこち参加するのもサークル活動のノリなのかもしれない。
 聞いただけでも、エホバの証人、生長の家、世界救世教、創価学会、幸福の科学など、ほんとうにあちこちです。今は行かなくなってしまった団体もあるみたいですが、つい最近は、喜び家族の和だったかな?また新しい団体に顔を出したようです。

 吃音の会のスピーチで、神がサタンがといきなり言いだすので、皆から敬遠されますが、真理を求めたいという気持ちがやはり根底にはあるようなので、僕はこのおじさんの言っていることも馬鹿にしてはいけないと思うのです。

 吃音の会では、自由にテーマを出してする話し合いがあったりするのですが、僕が「人類にとって言葉とはなにか?」というテーマを出したら、このおじさんは「イエスは、はじめに言葉ありきと言った・・・うんぬん」と言い出して、おお!素晴らしいことをおっしゃるなあと感心しました。
 人間の世界には、まず、はじめに言葉があるのかと、言葉からなにもかもはじまるのかと、うなずきながらそのおじさんの話を聞いたものです。

 世界は言語によって支配されている、という構造主義の言語学とも通じるものがあるのでしょうか?

 宗教好きのおじさんにはいろいろと気がつかされることが多いのです。

 僕ももっともっと世界の真理と自己の探究をしたいと思いました。

バタイユ

2009年3月3日 日常
 G.バタイユというフランスの思想家の本を読んでいますが、ちょっと難しい。その名も『エロティシズム』という本です。生殖活動は死と結びいているとか、云々。
 性の禁止についてなど、人類が古代より性をタブーに思ったり禁止したりしているとかのくだりを読んでいると頭が痛くなってくる。強迫と結びつくみたい。人類が性を禁忌なものと考えるというのは、強迫の症状とも大いに関係があるでしょう。
 
出版社/著者からの内容紹介
「私は誰か?」シュルレアリスム運動の最盛期,1928年に発表されたブルトンの代表作は,自分への問いかけから始まる.実際に出会った人物,おこった出来事,発せられた言葉を,克明に記録するというこの新しい「小説」は発表当初より賛辞にかこまれ,35年後,「著者による全面改訂版」としてふたたび世に送り出された.

内容(「BOOK」データベースより)
パリの町で出会った妖精のような若い女・ナジャ―彼女とともにすごす驚異の日々のドキュメントが、「真の人生」のありかを垣間見せる。「私は誰か?」の問いにはじまる本書は、シュルレアリスムの生んだ最も重要な、最も美しい作品である。1963年の「著者による全面改訂版」にもとづき、綿密な注解を加えた新訳・決定版。


 僕は白水社から出ているほうのナジャを読みましたが。
 パリの街角でブルトンに対して、「訳はすべて分かっているわ」というような微笑みを投げかけてくるナジャ。初対面にもかかわらず、です。これは僕の憧れでもありました。
 生い立ちからなにも、ことこまかに説明するまでもなく、出会った時点で承知されちゃっているのです。
 「これが不安」「あれが怖い」とか、僕の特有な不安とか性格をいちいち説明しなくても、分かってもらえていたら、すごいね。それは素敵だ。
 
 

2日目

2009年2月24日 日常
 何が2日目って、「わざとコンタクトしないで裸眼ですごそう大作戦」の2日目なのである。コンタクトもしないし、眼鏡もかけない。
 なぜ、コンタクトをしないのかと言うと、購入するのが面倒だからなのである。毎日の使い捨てのコンタクトを使用していますから、購入しても一か月たたないくらいで一箱分を使ってしまいます。
 最後の一日分を使い果たしたら、次の一箱を買うのが面倒になってしまいました。
 だから、コンタクトはつけていません。それで、眼鏡なんですが外出時に持って出かけるのを忘れてしまい、結局、裸眼で過ごすはめになり、今日がその2日目なのです。

 裸眼ですから、目を露出しているわけです。裸の目です。これは下手をすると強制猥褻に値するかもしれません。
 もしかしたらお縄にかけられるかもしれない、というドキドキ感を楽しみながら、スリリングな毎日を過ごす!!
 今日が2日目です。
 前からだけど、ここ最近特に疲労が凄いような気がする。神経の遣いすぎかしら??
 寝ても寝ても、起きたら疲れている。日中も眠くてしかたない。
 慢性疲労症候群か??
 それとも鬱なのか?
 あるいは身体の歪みからくる症状なのか?




僕はこれからも

2009年2月16日 日常
 僕はこれからも、タバコを愛する人でい続けます。何を愛するかは僕の自由なので。

タバコと言えば

2009年2月16日 日常
 タバコと言えば、「禁煙ファシズム」うんぬん・・・という本も出ているようだけど、タバコの有害なところばかりを宣伝し、タバコを悪として決めつけ、禁煙して当たり前だ!という社会の風潮は、僕は嫌いだ。喫煙はそんなに悪いことなのか。世間の嫌煙の風潮に疑問だ。
  前にも同じようなこと書いたけどね。
 掲示板なくなっただけでも、軽い喪失感を感じるなあ。今まで蓄積されてきたものがなくなるというのは、喪失感につながる。

 ああ、タバコ吸おうかなあ。

いつのまにか

2009年2月16日 日常

 いつの間にか、知らない間に、このブログにつけていた掲示板が使えなくなっていました。
 後も形もなくなっとる!!ロケットBBSさんの都合なのかしら??なんで無くなったんだろ。たぶん古いメルアドに通知が来たんだろうな。だから僕は気がつかなかった。

 

嘔吐

2009年2月15日 読書
内容(「MARC」データベースより)
サルトルの精神形成を知るうえで欠かすことのできない「実存主義の聖書」であり、また実存主義思潮の熱い季節が去った後も、人生とは何かを真正面から純粋に追求した類稀な小説。実存と不条理を描く現代文学の古典。*

 いちおう読みました。歴史家ロカンタンが主人公。考えすぎて、何にもしない、だたの一市民である。
 ある日、突然に嘔吐の感覚がはじまると、世界がゆがんで見え始める。
なんだか、僕の嘔吐恐怖症と、目のガイシャイの症状みたいだ。
ガイシャイは物が二重に見えるのだけど。物が二重に見える、実存主義では自分に見えたままが実存だから、僕に世界が二重に見えるなら、世界は二重なんだよ。
 僕が見て感じたとおりが真実だ。

 サルトルは、よく分からないです。この本も読んでいて、つかみどころがなくて、なんだかよく分からなかった。これってホントに小説なの?と思ってしまった。ストーリーがあるような、ないような。
 
 ああ、そういえば、ひきこもりのサークルでアンガージュマン、アンガージュマンってさかんに言っているところがあった。
 社会参加?
 アンガージュマンは、そんなような意味なんだけど、自分が主体的に社会を変えていくような、革命とか、そんなようなものがアンガージュマンというのかと思ってた。
 ひきこもってた人がバイトとかするようになるのもアンガージュマンなのかな?


 僕がブログを書くことは?

 自分が現実に対して、何か働きかけをすることをいうのかな?




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