吃音者の会にて、「ブログに吃音のことをもっと書きたまえ」と言われたので、今日は吃音について書いてみよう。
 私が吃音者の会にてすこし残念に思うのは、たいがいの方が、口から発せられる物理的な音声としての言語が流暢であるか、それとも非流暢であるかという現象面だけにとらわれているということである。
 ようするに吃るか吃らないか、その二分法なのである。すこしでも流暢に言葉を発するために、これから発っしようと思う言葉をなんども予行練習で練習してみたり、わざと別の言葉に言い替えてみたり、このような小手先のテクニックに終始し、一時の流暢性の獲得のみにこだわっているのでは、言葉の本質というものを見逃してしまうような気がしてならない。
 なんども予行練習を繰り返した挙句に発せられる言葉、自らの想いとは異なる別の表現に置換えられた言葉というものが、本当に自らのありのままの言葉といえるのであろうか。みせかけだけの流暢性を獲得することが、真に我々にとっての目標となりうるのだろうか。
 我々はこの世界に内存在として実存している。自らの生は自らでしか生きることができないのである。この世界に肉体をもって自らとして生きて存在している私が、今この瞬間に感じること。私とあなたとのつながりのなかにおいて、たった今この瞬間に感じた想いをそのまま言葉としないで、真に自らの生を生きていると実感することができうるであろうか。
 メルロ=ポンティや竹内敏晴氏などが語る、今この瞬間に生まれる言葉というもの。言葉の本質とはこういうものではないのだろうか。
 私は昨年くらいからそのように思うようになった。
 

千里眼

2007年2月5日 読書
ISBN:4094032525 文庫 松岡 圭祐 小学館 ¥690
出版社 / 著者からの内容紹介
可憐で心優しい最強のカウンセラー、岬美由紀登場!
横須賀基地から最新鋭のミサイルが突如、都心に向けて発射された。着弾を阻止するには十桁のパスワードを解読しなければならない。美由紀は解読にとりかかる……。一方、千葉の南房総では巨大な観音像に魅せられる不審な少女の姿があった。その陰には世界を震撼させる〈催眠〉の罠が待ちうけていた!

予断を許さぬサスペンス、えも言われぬ爽快感。エンターテインメントの粋を尽くし、ベストセラー街道を独走した大傑作、待望の文庫化!

内容(「BOOK」データベースより)
可憐で心優しい最強のカウンセラー、岬美由紀登場!横須賀基地から最新鋭のミサイルが突如、都心に向けて発射された。着弾を阻止するには十桁のパスワードを解読しなければならない。美由紀は解読にとりかかる…。一方、千葉の南房総では巨大な観音像に魅せられる不審な少女の姿があった。その陰には世界を震撼させる“催眠”の罠が待ちうけていた!予断を許さぬサスペンス、えも言われぬ爽快感。エンターテインメントの粋を尽くし、ベストセラー街道を独走した大傑作、待望の文庫化。


 
 映画も劇場で観たし、原作も読んだ。
 ようするに、ロボトミーみたいなものか。人間の脳に外科的手術を施すと、けっこう思い通りに操ることができてしまうと。
 まあ、これは物語の中でのことですが、意外と現実にも人間を思い通りに操ることはできるのかもしれません。ロボトミーのような脳を外科的に手術するなんていうような古い方法を使わなくても、もっとスマートな方法でできることでしょう。そういう技術は研究されているはずです。
 そうなると、全体主義の国家なんかはたやすく作ることができます。恐ろしいといえば、恐ろしいですがね。

 そういえば、この作品の中には、メフィスト・コンサルティングとかいうような組織が出てきます。人類の歴史を影で操る存在と。
 こういう組織も、実在するんでしょうね。アメリカ大統領なんかも傀儡みたいなものでさ。
 ほんと、怖いですよ。我々の日常にさまざまな影響を与えていますよ。
 
 あれだ、たぶん新幹線とかロマンスカーが全席禁煙になって、僕がタバコが吸えず、泣きそうになるのも、合衆国と世界を影で操る存在のせいかもしれぬ。
 満員電車で、いくらたっても、僕の前の席だけが空かなくて、結局ずっと立っているはめになるのも、合衆国と世界を影で操る存在のせいかもしれぬ。
 僕がカップヤキソバでお湯を捨てようとするときに、中身の麺まではみ出てしまって、流しに麺をぶちまけちゃうのも、合衆国と世界を影で操る存在のせいかもしれぬ。
 電車の中で、途中の駅から乗ってきたカワイイ女の子は絶対に僕の隣の席には座らず、むさくるしいおじさんたちにいつも僕が囲まれて座ってなければならないのも、合衆国と世界を影で操る存在のせいかもしれぬ。
 ・・・・うわあああぁあ!陰謀だ!陰謀だらけだ!!・・・世界は操られている!!

 
 
 以前、けっこうそっちょくなことをこのブログに書いていたら、余計なコメントを書いてくる人がいたし。一般論なんかどうでもいいんです。だって、僕が僕の中で感じたことを書いたのだから。それなのに、常識論とか一般論でコメントされても、ようは僕の感じたことを否定したいだけなんでしょ?としか思えません。

 なんで人というのは、他人を評価するのでしょう?僕が僕の人生で思うことは、僕の中では真実であります。

 ここで他人の目を気にしながらブログ書くのも、くだらないね。

僕の自由な表現に、否定の評価をしてくるというのは、ようは自分の意見をおしつけたいだけじゃないか。

 ああ、トラウマになってる。即刻リンクはずしたけどね。トラウマだね。
 
 いまだに吃音の会には相変わらず出ているわけで、つい今さっきも行ってきた帰りであるわけですが、私は常識的な言語治療の考え方では飽き足らないわけです。生理学だ脳科学だと。自然主義的な一面的な見方ではね。
 この前に出席した横浜における会合では、「今年の吃音抱負」というものを一人ずつ言わされまして、私は「スピリチュアルな視点で吃音を捉える」とはっきり言ってやりました。職業として占い師を選択する者が、吃音をスピリチュアルな視点で捉えるのも当然なのですが、やはり会では言いづらいのですね。
 しかし、年頭にこのようにはっきりと言えたことは、たいへんすがすがしかったわけです。
 でも、哲学的に吃音を捉えるということについては、言い忘れました。メルロ=ポンティなどの実存主義、現象学のような立場で言葉を捉えるということもね、奥が深いのですね。
 去年は過ぎ去るのがかなり早かった。

 去年、一つ発見があったことは、退行催眠で自らのインナーチャイルドと出会ったこと。

 今までいくつもの催眠に通って退行催眠に挑んでおきながら、先生とのラポールがうまく形成できていなかったり、無意識の感情と向き合うのに抵抗をおこして催眠がシラけてしまうなど、ことごとくうまくいかなかった。

 しかし、去年出会った先生は本物のインナーチャイルドと出会わせてくれた。小さい時の怯えていて恐怖を感じている自分と出会えた。今まで気づくことのできなかった問題に気がつくことができ、自らの心の洞察が驚くほどたやすくできるようになった。
 吃音、強迫、嘔吐恐怖などの周辺的な症状が、すべてインナーチャイルドの問題に還元できることにも、より実感が強くなった。

 
 文章を書くことが要求される仕事、ちょこっとやってたんだけど、ついこのまえクビになった。「キミの文章、マンネリ。ワンパターン。」だって。
 そうですよね、やっぱり。自分でもそう思っていました。基本的にボクは仕事ギライなので、仕事では手を抜く人間なのですが、それでも、文章が原因でクビになるのは、ちょっとへこみました。
 
 
 ボクは文章だんだん自信がなくなってきました。お友達のブログの文章のほうが上手いです。表現が巧みだ。

  
 

 
 
 はたして僕は参加するのでしょうか?すこし躊躇しているのだ。
 
 夜遅くて帰れない可能性もあり。
 
 なんとなく気が重いのです。

 シャイでもありますし。
 
 
  
 「手相見せてください」って道端で声かけられた。なんか何人かで分散して、通行人に声かけてる模様。僕は男の人に声かけられた。関わるの面倒だから「西洋占星術とか勉強してるんで」って言ったら、簡単に退いてくれた。やっぱりこういう方たちは宗教の方かしらん?以前、地元の書店で手相フェアだかなんだかしらないけど、数日間だけ手相の店が出ていて、よく見てみたら実態は新興宗教さんだった。某受験予備校も経営していらっしゃる教団。まあ、僕は宗教は尊重するんだけれど、やっぱし押しつけられたら嫌だ。
 困ってますよ。7年間ずっとカットしてもらっていた美容師さんのいる美容室が今月で閉店。男性の美容師さんだったけど、話すのがいつも楽しかった。吃音とか強迫のことも理解してくれる美容師さんだったからね。
 それで、その美容師さんの次のお店がまだ決まっていないらしく、決まりしだい連絡くれるんだけど、いつになるのか分からないので、髪が伸びるの早い僕はその間どこで髪を切ってもらったらいいのでしょう?
 とりあえず、近いうちにまたカットしなければならないので、どこか別の美容室に行かなければなりません。
 しかしだね、7年間もその人にやってもらっていたから、急に他へ行こうとしても、どうやって探せばいいのか。
 はじめて行く店は緊張しそうな気配。
 いっそのこと、キレイな女の美容師さんにやってもらうか。
 だめだ吃音ひどくなってきた。ドモリね。占い学校でいちじるしくドモリが出た。胸のあたりが苦しい。たぶん、いつもと周囲の雰囲気がちょっとばかり変わったからだな。それで無意識的な緊張を喚起してドモリがひどくなったのだと思う。ひさびさに恥ずかしい思いをしたなあ。泣きそうになったよ、一時は。
逆に書きたくなるから不思議だ。あまのじゃくだと言われた。
 
 もう、ブログ書くのも、めんどいのです。ブログで自分を表現する時代も自分にとっては終わりつつあったというわけで。

 ここで、ブログを書いていても、どうせ、自分の中の一つの人格しか発揮できない。これは多重人格などの意味ではない。役割演技のようなものだ。

 ブログを書くことのメリットがなくなってしまった。

 しばらく放置することになりそうです。
 
 ミクシイ、なにせケータイからも見れるからイカンのです。外に出ると、常にミクシイのことが気にかかります。ケータイからモバイル版のミクシイにログインばっかししているので、すぐに電池がなくなります。

 ホントに暇さえあれば見ています。友達と喫茶店に入って、お茶飲んでいるとき、友達がトイレに行っている間も、ケータイからひたすらミクシイをチェックする僕なのです。友達が意外に早く席に戻ってくると、怨めしい限りであります。

 「コメント書いていて、せっかく気分がノってきたのに!!」

 
 
 けっこう、コメントとか書いていて、だんだん気分がノってくると、我ながらすごいジョークを書いているような気がして、相手の反応が楽しみでしかたないのです。それで、相手が思ったよりもしらけた反応をすることが多いので、落ちこむのです。そして、相手が他の人のコメントの返事にものすごい有頂天のようないい返事を書いていると、はっきり言ってやきもちを妬いてしまうのです。

 もう、そんなようなミクシイに支配され翻弄されまくるような生活は、やめたいのです。一刻も早く。手遅れになるぞ。


 しかし、ケータイに触れないように、触れないように、と頑張っても、長続きは、しやしません。ケータイ、電池がもうほとんど無いじゃん!っていう状態でも、ひたすらミクシイをやってしまうのです。
 何回、ドコモショップのお姉さんに充電してもらったか分かりません。

 
 
 もう、禁煙どころでは、ありませんな。タバコを吸う暇があれば、ミクシイやっているんだから。

 ミクシイやる暇があるんなら、セブンスターを吸いまくるような健全な生活に早く戻りたいです。
 
 僕が読書好き、文学好きになったきっかけは、フランツ・カフカである。
 それまで本といえば漫画しか読まなかった僕は、古本屋で店員として働いていたときに、すごいきれいなお姉さんがカフカの『変身』を文庫で買って行くのを見て、「あんなにきれいなお姉さんが買って行く本とはどんなものなんだろう」という興味から、自分もカフカの『変身』を読んでみたわけなのである。

 主人公であるグレゴール・ザムザは、ある朝目が覚めると突然、大きな虫になっていた。

 ようは、ただそれだけの話しである。グレゴールは自らが虫に変わってしまっているということに、何らの疑問ももたず、それをすんなりと受け入れてしまうから、そこが不思議といえば不思議なのだが、まあ、それは僕にとっては関心のあることではない。

 僕が気にしていたのは、もちろんかもしれないが、なぜグレゴールが虫になってしまったのか、ということであった。
 僕は、グレゴールの現実からの逃避の願望が、自らを虫に変え、さらに自らの人間としての宿命を否定したことにより、もはやこの世界に存在できなくなったと考えた。(グレゴールは若くして父、母、妹との四人からなる家庭を支えていかなければならず、その状況から逃避したがっていた)
 グレゴールが変身した虫は、ほどなく死んでしまうから、グレゴールは虫としての姿でこの世界に存在することも本質的には許されていなかった。

 カフカは世界の不条理を描いているとよく言われるが、僕はいまだにつかみどころの分からないカフカの作品が好きである。『城』、『審判』、『アメリカ』など、どれもただ読んでいるだけでは、作品として何が言いたいのか分からない。しかし、世の中に存在する不条理から目を背けさせ、あたかも世界には何らの不条理も存在しないかのように思いこまさせている社会というものの存在に比べれば、カフカはよほど正直な人間だったのかもしれない。
 
 
 この前、久しぶりに渋谷ブックファーストで時間つぶしで立ち読みなど。

 夏はスピノザちゃんが本棚の隙間に落ちてカワイソウだったけど、今は元気そうに積んであった。

       
 やっぱし本屋さん好きです。ハイデガー立ち読み。メルロ=ポンティ立ち読み。ソシュールは、今回手も触れず。         
 僕は本はまともに読みません。とばし読み。部分だけ読み。図書館でも、ロバート・オーウェンとばし読み、デカルト部分読み、ダーウィン解説だけ読み、ベルクソンも解説だけ読み、キルゲコール序文だけ読みしてました(T_T)

     
 渋谷の話に戻すと、ハチ公のとこに古い電車の車両が( ̄□ ̄;)!!もにゅめんとぉ!昔の東横線。ミドリ色!中へ必ず入る。人間の心理。ああ、飛鳥山公園の都電を思い出す。
 日記、あんまし書くネタがないのであります!・・・このまえ、友達とフリーマーケットに行ったのですが、たぶんボクはフリーマーケットに行ったのはハジメてかもしれません。
 それで、友達がいちいち値切っているので、びっくりしました。ただでさえ安いものなのに、さらにそれを値切るだなんて!って、びっくりしました。
 フリーマーケットでは値切るのが当たり前なんですってね。友達がそう言ってた。
 ボクは何かを買うときに値切った経験なんて生まれてからたぶん一度もないので、なんだか値切るのには抵抗があります。むしろ、値切りたくない。表示された価格で買うのがボクにとっては当たり前なので、なんだか表示の価格よりも値切ると、品物じたいの価値が下がるような気がします。
 損な性格かもしれませんが(+_+)
 
 役者さんたちが劇のあと、舞台に向かっておじぎをしたとき、カーテンコールというのかな?そのときに役者さんの表情がなんともいえない笑顔で、とても幸せそうだったということ。

 鳴り止まない拍手のなか、役者さんはどんな気持ちだっただろう。僕はその時の役者さんたちの表情を見て、涙が出そうになった。

 芸術って何なのだろう。何かを訴えるべく表現することか。作品として創り上げるものなのか。

 僕にとっては、あの最後のおじぎをした時の役者さんの表情こそが、芸術だった。作品そのものだった。なんで僕は泣きそうになるんだろう。目頭が熱くなるんだろう。
 ここに役を演じ終えた役者たちがいる、役を終えたときの満足感を身体全体で感じている表情、鳴り止まない拍手への感動の表情、これこそが芸術だったんだ。なにか理屈ではなく、心を動かすものがあった。

 会場からの鳴り止まぬ拍手に、演じることを忘れた役者がつい笑顔になった瞬間、その瞬間こそが芸術だったのだ。その瞬間に居合せることができて共にその瞬間を創り上げることができて、ほんとうに良かった。

 

 
 
 帰納法では知ることができない、と思った。

 なにか大切なことを見落としてしまう。

 
 
 
 本多劇場はじめて行った。友達と観に行ったのです。なんか、招待ということでタダで観てしまいました。本当だったら、5,000円はするところでした。にゃはは♪得しましたっ♪嬉しいです。

 観たのは『ブンナよ、木からおりてこい』とかいうような題名の劇でした。いきなり人間がカエルの役をやっているので、驚きました。主役はトノサマガエルでした。
 カエルだけでなく、ヘビとかネズミとかモズとか、いろんな動物が出てきました。すべて、役者さんたちがその動物に扮するのです。

 なんか自然界の厳しさというものを訴えていました。弱肉強食、食物連鎖、自然淘汰。

 その中でも弱い生き物たちは、自らの短い生を懸命に生きるのです。たとえ生は短くとも、いつ死んでも悔いのないように、今を懸命に生きる。

 僕は、そこにハイデガーの実存主義をみました。我々は死を意識して、はじめて生を意識する。私というものは、自らの死を意識したとき、はじめて私自身になるのです。死を意識して、はじめて私自身というものを獲得する。

 そういう深いものを昨日の演劇のなかに、みました。
 
 
 あんまり面白いお話でもできないなあ。友達に映画に誘われても、観に行かなかった。僕があまり気がすすまなくて。
 
 
 あれ?あれは誘ってくれたわけじゃなくて、ただ「オレはこんな映画がみたい」
 と言っていただけだったっけ?

 外国の映画で吃音者が出てくる映画か。


 君は結局、観に行ったのかな?
 レイトショーとやらを。


 

 

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